わたしには、二人の“兄”がいる。

 10歳からの3年間、わたしは親の仕事のためにアメリカ・ロサンゼルスで暮らしていた。帰国子女なんて大層な肩書きで呼ばれたくなくて、高校ではあまりその事実を口にしたことはない。けれど、やはり短い人生の五分の一を占める海外経験は大きいもので、国際色豊かな陽泉を進学先に選んだのも入学して間もなく留学プログラムに参加したのも、そこで抱いた海外への興味が動機になっている。アメリカでの日々はわたしにとって掛替えのない思い出だ。

 その特別な記憶の中に、彼らがいた。

 一人目の“兄”は、火神大我くん。
 わたしより少し先に渡米していた小学校の同級生。慣れない場所で途方に暮れていたわたしの手を取って子供たちの輪の中に連れて行ってくれた、恩人というべき相手だ。
 もう一人の“兄”は、氷室辰也くん。
 火神くんが兄貴分と慕っていた、一つ年上の男の子。向こうでの生活が一番長かった彼は、いつでもわたしたちのお手本のような存在だった。

 二人は、数少ない同郷の子供であるわたしのことを、妹のようにかわいがってくれた。英語もわからず赤ん坊のまま異国の地に放り込まれたような状態だった自分にとって、彼らと出会えたことは何よりの僥倖だったと思う。思い出すのは、西海岸の渇いた陽気と、バスケコートを駆け回る“兄”たちの笑顔。二人と一緒にいた時間は、離れてもなお、きらきらと輝いて胸の中にあった。





わたし






 バスケ部の練習が終わった頃には、すでに日が沈んでいた。わたしは今、校門に一人立って、一緒に帰ろうと言ってくれた氷室くんを待っている。

 あのあと、体育館ではちょっとした騒ぎが起きた。予期せぬ再会に戸惑いと興奮を隠せないわたしたちの声は、紫原くんや先輩をも巻き込んで他の部員にも届くところとなり、最終的に騒動を聞きつけた顧問の先生が竹刀を片手に駆けつけるに至ったのだ。
 大事になってしまったことに肝を冷やしつつ事情を説明し、紫原くんのクラスメイトで氷室くんとも顔見知りだと自己紹介をすると、先生や部員の皆さんはそろって目を丸くした。部内でも注目を集める新人たちの関係者というフレーズは大層彼らの興味をひいたらしく、せっかくだからと誘われた部活見学の間、わたしはいくつもの視線と質問を浴びた。
 ひょんなことからお邪魔させてもらった部活は、とても迫力があり見ていて楽しかった。けれど、大切な練習を引っかき回してしまったのも事実だ。やっかいごとを引き起こした部外者であるわたしにも気さくに話しかけてくれた先輩方は、本当に優しい人たちだと思う。お詫びもかねて今度差し入れか何かを持って行こうと計画しているのは、ここだけの話だ。

「ごめん、。待たせたね」
 声をかけられて振り向けば、帰り支度を済ませた氷室くんがそこにいる。すっかり見慣れた制服だけれど、3年ぶりに会う兄貴分がそれを着ているという事実には妙な違和感と気恥ずかしさがぬぐえない。ネクタイがよく似合う彼から視線を外して、弾んだ心臓を押さえるべくこっそりと息をついた。
「いえ、全然。部活お疲れ様でした……ええと、氷室先輩。そろそろ行きましょうか」
 昔の癖でつい気安く呼びかけてしまいそうになるのを意識的に変えているけれど、どうもぎこちなくなってしまう。何となく顔を見られないままわたしは彼と並んで歩き始めた。




 陽泉高校は全寮制だ。学生寮は、校門から目と鼻の先のところにある。待ち合わせて一緒に帰っているものの、その道のりは短い。自然と足は通学路を逸れ、やがて近所の児童公園にたどり着いてようやく動きを止めた。
 小さなベンチの上、氷室くんと拳一つの距離を開けて座り、わたしは少しだけ緊張していた。離れて、3年。最後に顔を合わせたのはアメリカで、帰国後も数度引っ越しを繰り返したせいで手紙のやりとりもままならないまま長い時間がたってしまった。こうして一緒にいてくれるけれど、もしも、とっくに愛想をつかされていたら。そんな不安が頭をかすめてどうにも落ち着かない。

 けれど、そんな心配は余計なものだとすぐにわかる――氷室くんは昔の通り、優しい兄のままだった。

 彼はわたしより一足早く、6月半ばに帰国したらしい。部活への本格的な参加は夏の大会が終わってからで、今は調整がてら軽く練習に混ざるなどしているという。
「部活の見学生ってところはと一緒だ。先輩後輩ってところは同じだけど、立ち位置は今の方が近いな、俺たち」
 だから、も昔みたいに友人らしい言葉遣いでかまわないよ。ほほえむ彼のおかげで肩の力がするりと抜けた。懐かしい安心感に包まれて、また会えてうれしいと素直な気持ちがこぼれ出る。
 そして、わたしたちは離れていた時間を埋めるように言葉を交わした。
 氷室くんは、日本でのわたしの生活についてずいぶんと詳しく聞きたがった。中学時代や先日の留学について、自分のこれまでを図らずも振り返ることになってしまい少し気恥ずかしかったけれど、彼は些細なことも笑ったり感心したりしながら聞いてくれる。相変わらず聞き上手な氷室くんに、昔のあこがれが重なって胸の奥がじわりと熱を持った。
 逆にわたしから彼のアメリカでの学校生活について水を向ければ――案の定というべきか――出てくる単語はバスケットに関わることばかりだった。ストリートでやんちゃばかりしている他校の学生と対決した話、ハイスクールのクラブの試合に助っ人として参加した話、エトセトラ。よく聞けば危ない橋を渡っているようなエピソードも少なくなかったけれど、愉快な思い出として語るものだから、わたしまで笑えてきてしまった。
 思えば、氷室くんは昔から、目的のためには大胆な手を使うところがあった。ことバスケが関わるとその傾向が顕著だったのを考えると、彼の少し過激な高校生活にも納得がいく。身体はずいぶんと大きくなっても氷室くんのバスケ漬けは相変わらずのようだった。

(バスケ漬け……は、もう一人いたか)
 頭をよぎったのは、ストリートのコートで氷室くんと対峙するもう一人の“兄”の姿。
 彼の名前がこぼれて出たのは、たぶん過日の試合を思い出していたからだ。

「そういえば、火神君、どうしてるだろう」
 ふとした呟きは、余韻を残して続く沈黙の重さを際立たせた。
 唐突に途切れた会話に首を傾げて見やった先で、氷室くんが逃げるように視線を逸らす。
 ――何かがおかしい。それは、わたしの直感だ。
「……タイガは、の一年後に日本へ帰ったよ。急なことでろくに挨拶もしないままだったから、今どこにいるのかも知らないんだ」
 足下に目を落としたままで淡々と彼は言う。そのどこか固い声に、そっか、と短い相槌を返すほかなかった。二人の兄の間になにがあったのか、知りたくはあったけれど、横顔に滲んだ言外の拒絶がわたしの口を重くする。
 ふと、先ほどの部活での、氷室くんのプレーを思い出した。昔より格段にきれいで力強いバスケットを披露する彼は、かつてとはどこか違う雰囲気をまとうようになっていた。氷室くんはいつから、あんな風に何かに身を捧げるようなバスケをするようになったのだろう。
 動き回った後だからか、わずかにゆるめられた胸元で、見覚えのあるリングが揺れている。錆一つなく、きれいに手入れされたそれが意味するものは、果たして――。

「あ、こんなところにいた」

 降ってきた声に、二人そろって顔を上げた。公園の入り口、木の影が作る暗がりに、異質な紫がそびえたつ。紫原くん。アツシ。異なる音で呼ぶわたしたちを見下ろして、彼は長いため息をついた。
「部活終わっても一向に帰ってこないから、何してんのかと思ったら……もう食堂閉まるよ? 先輩たち、アンタらのことすげえ心配してるし。おかげでオレまで探して来いって駆り出されたんだけど」
 いい迷惑、と顔を顰める紫原くんの言葉を聞いて腕時計に目を落とす。短針が8時を回っているのを見て飛び上がった。食堂の営業終了まで1時間もない。後は寝るだけのわたしはともかく、スポーツマンの氷室くんが夕食抜きというのはいただけない話だ。小走りになるわたしたちが追い付くのを待たず、紫原くんはのそのそと歩き出していた。




 駆けるわたしたちと、長いコンパスで早歩きの紫原くん。来たときはあんなにゆっくりと見えた景色が視界の端に流れる。ようやく目的の門をくぐると、部屋が食堂から遠いらしい氷室くんは、短い挨拶を残し慌てた様子で男子寮に飛び込んでいった。彼の背中に手を振って、奥にある女子寮に向け足を踏み出す。ここまでダッシュしてきたおかげで息が上がってしまい最後は徒歩での移動になった。紫原くんはマイペースに駄菓子を頬張りながらもわたしについてきてくれている。尋ねると「福ちんに、アンタを見つけたら送ってけって言われた」と返ってきた。部活中も何だかんだと文句ばかり言っていたけど、先輩の言うことはちゃんと聞くんだ。そんな風に感心していたら、紫色の眼にじろりと睨まれて、慌てて前を見た。
「結局、アンタと室ちんてほんとに知り合いなの?」
「うん、そうだよ。アメリカにいたころの学校の先輩で、お兄さんみたいな人。会うのは、3年ぶりだけど」
「ふうん。それじゃ、昔と全然違ってんだろーね」

 思わず、足が止まる。
 わたしはすっかり呆けてしまって、高いところにある顔をまじまじと見上げた。遠慮のない視線にさらされて怪訝な顔をした彼が「おなかでも減ったの?」と言いながら手の中の駄菓子の袋を後ろ手に隠す。別に中身を狙っているわけではない、というか重要なのはそこでなく。

「……3年たったら、変わるもの?」
「はあ? ちょっと、ほんとに大丈夫、さん」
 今度こそ怪訝な表情を隠さなくなった紫原くんは、長い腕を伸ばしてわたしの眼前で手を振った。見えてる、起きてる、大丈夫。言ってはみるけど、彼はまだ何かを疑っていそうだ。
「……3年もあれば、そりゃあ誰だって変わるでしょ。俺だって中学だけで30センチくらい身長伸びたし。まして外国にいたりしたら、予測なんかつかないんじゃないの」
「……そっか。誰だって、変わるか」
「きっとそーなんじゃん? まあ、オレ知らないけど〜」
 ゆっくりと言葉を舌の上で転がすと、そこから溶けて体にしみこむような感じがした。紫原くんは会話の途中で話題に飽きてしまったらしく、わたしがお礼を言った時にはすっかり駄菓子の方に意識を集中させている。彼らしく間延びしたおざなりな返事に笑いが零れた。

 明日、氷室くんに会ったら、わたしの方から挨拶してみよう。そう決意した途端、少し憂鬱に思えた朝の訪れが待ち遠しくなった。

 涼しい夏の夜、目的の寮の入り口まであと少し。
 気付けば、あれだけ重かった足は随分と楽に動くようになっていた。



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