あの古びた校舎を、箱庭のようだと最初に言ったのは、いったい誰だっただろう。





 かかって来た電話は高校時代の後輩からで、久しぶりに聞いた声は制服を脱いだ今でもやかましいまでにはつらつとしていた。
 電波越しに学校や部活の近況を報告する高尾の言葉を遮らずに聞いていたのは、俺もどこか感傷的になっていたからだろう。飛び出す固有名詞はどれもずいぶんと懐かしくて、あの年季の入った建物が脳裏に浮かんだ。

「あっそうそう、大事なこと伝え忘れてました!」
「なんだよ。つーか高尾、声でかい」
「すんません、久しぶりに宮地さんと話したらテンションあがっちゃって」

 調子のいい笑い声に、相変わらずだと呆れを覚えたのはほんの一瞬。

「緑間と先輩、付き合い始めたそうです」

 とっさに開いた口から、言葉は出なかった。
 いくらかの間を置いて、ようやく転がり出たのは「そうか、」という短い相槌。
 高尾は今までのはじけぶりをどこかに置き忘れたかのように真剣なトーンで話を続けた。

「去年の先輩の卒業式に緑間が告白したんですけど、答えはあいつが卒業するまで待つってことになって、」

 淡々と告げる高尾の声をどこか遠くに感じる。
 いろんな感情がぐちゃぐちゃになって、出てきたのはたった一言。
 ――ああ、やっとか。
 俺は、このとき、確かにほっとしていた。






 は、俺のプレーを見てうちの部に入ったという。彼女からそれでお礼を言われたこともあったが、本当は、順序が逆なのだ。
 が俺のプレーを見ることになったのは、ひとえに彼女自身のおかげだった。

 今から4年前、1年生の夏のことだ。
 ちょうど、同時に入ったやつらが、練習のきつさと選手層の厚さにくじけて何人も部を去っていった時期。俺は、2軍にあがったきり、なかなか伸びない成績に焦りを覚えていた。
 そんなとき、チームメイトの妹が出るという中学女子の試合の観戦に誘われる。
 その試合に、彼女がいたのだ。
 背丈がものをいうバスケットコートを、小さな影が縦横無尽に駆け回る。走るのも跳ぶのも、必死の形相。とてもスマートとはいえないプレーに、なぜだか目を奪われた。
 余韻は長く続く。記憶に残る小さな女子選手のプレーに駆り立てられるように、俺は再びバスケに没頭した。雑念を排除し、どこか空回り気味だった練習がかみ合うようになると、俺の成績は少しずつ伸びていった。
 心のうちに感謝をしていて、けれど一言も交わしたことのない彼女の名前を知ったのは、翌年の春、ようやく1軍に入ったころだ。新入部員の挨拶で、マネージャーの肩書きを下げて入ってきたのを見て心底驚いた。
 足を怪我してプレイヤーをやめたという彼女の言葉は、あの日の光景をどこか拠り所にしていた俺に、思った以上のショックを与えた。
 ――けれど、

『足を壊して、全力のバスケはできなくなりました。競技からも離れようかと思いましたが、宮地さんのプレーを見て、この部に入ろうと決心したんです』

 その一言で景色が変わる。
 強くなりたい、勝ちたいという気持ちは変わらず確かにある。そこに、彼女をもっと高いところへつれていってやりたいという願いが加わった。それは三年生の冬、最後のブザーが鳴る瞬間まで、胸の中の少なからぬ部分を占める強い思いだった。



 俺はのことをどう思っていたのか、答えは今もってわからない。
 思春期の恋と呼ぶには尊敬の念が強すぎて、かわいい後輩とくくるにはあまりに特別だった。



 卒業の日、が突き付けた問題に、俺は解を出せぬまま、沈黙を選んで彼女の元を去った。そして今――は、緑間と一緒にいる。頑固で変人だが、を不幸にするようなだらしのない人間ではない。いつだったか、緑間に「を頼む」と伝えたことがあった。雑音にまぎれて向こうには聞こえていなかっただろうが、あいつは結果的にそれをかなえたのだ。
 素直に祝福したくなるふたりだった。きっと回りが恥ずかしくなるくらい、不器用に、まっすぐに、互いに向き合っていくのだろう。
 俺にはついにできずに終わったことをさらりと成し遂げる緑間が、少しうらやましかったということは、誰にも明かすつもりはない。





 あの古びた校舎を、箱庭のようだと最初に言ったのは、いったい誰だっただろう。
 手作りのいびつな庭に置いてきた、唯一の心残りが、やっと完結する。ままごとのように幼い真剣さで築いた、言うなれば、童話に出てくる理想郷だ。こどもの想いを閉じこめて、おとなになったら二度と戻れない。
 を初めて見てから、4年半が経つ。俺はようやく、今は遠い憧れを過去のものにできそうだった。




さよならネバーランド





宮地さんと緑間くんと不器用な三角関係のお話。
2014.03.26 夏月