狭まる視界を掠めた空は、どこまでも青かった。


 ラストステージの道の上に、夏の風が熱をはらんで渦巻く。最後の一滴まで絞り出して、一歩も踏み出せなくなった時、それに『飲み込まれた』と感じた。代わり先頭に飛び出した新開が、こちらに手を伸ばしていることは知っていた。目の前で空を掴んだ拳は、見る間に遠ざかり、5つの背中の向こうに消えていく。

 オメー、新開、ナァニ振り向いてんだ。ンな余裕があるなら、もっとガンガン引けっつーんだヨ。

 悪態をつく気力もなく、意識がホワイトアウトしていく中、「ハ、」と漏れた声は、果たして笑い声であったのか。


 ゴールへ、速く、誰よりも。

 ジャージを、ハコガクを。

 3年間、なァ、福ちゃん、




 前へ、





*****







「――目、覚めた?」

 空も、風も、今はない。目に映るのは、見慣れないまっしろな布地の天井だった。
 ここはどこだ、と疑問が浮かんだのは一瞬だけ。夢と現実の境目がはっきりとしてきて、荒北は再び瞼を閉ざした。

 落ちた。インターハイラストステージは、あの場所で、終わったのだ。
 呆気なくも満たされた、不思議な最後だった。

「確認のために、名前を教えてもらってもいいかな」

 耳に入ってきた声に、意識を引き戻される。薄目を開けて見やると、腰をかがめて覗き込んでくる女の姿があった。
 胸元で揺れるIDカードには、太字のゴシックで『救護テント』と書かれている。自分の居場所がこれで確実にわかった、とぼんやり考えながら、名前を口にした。のどがひどく乾いて、声が張り付くようだった。
 荒北の返答に満足げに頷いて、彼女はてきぱきと動き始めた。「頭痛はある、吐き気は? あ、ちょっと脈と血圧取るから、右手貸してね」
 普段なら他人になど触れさせないだろう手首の内側に細い指が触れるのを見るとはなしに眺めながら、遠い山の上を思う。青と白の、5枚のジャージは。

「先頭は最後の山岳ステージに入ったそうよ」

 顔を上げると、眼前には差し出された経口補水液のパッケージ。女の両目はそっと細められて、のろのろとそれを受け取る荒北に向けられている。

「暑いわね、ほんとう」

 冷たすぎない水を流し込めば、それは細胞に染み渡るかのようにじんわりと広がった。
テントの奥から「先生!」と声がかかる。半身を返して短く返事をする女の声には、今しがたの静かな呟きとは打って変わって力がこもり、この場の慌ただしさをにじませる。

「――テントの中でも、暑いワケェ?」

 受け答え以外で初めて口を開いた荒北を、女は目を瞬かせて振り返った。驚いた表情でしばし彼を見下ろしていたその顔が、ふと、ほころぶ。「ここが、わたしたちの道の上だからね」

「……ハッ、」

 口角が上がる。唇がめくれてわずかに歯茎が覗く。いつも通りの形で、今度は自覚的に、荒北は笑った。
 キュ、とスニーカーの靴底が鳴る。女の薄化粧の顔がすぐそばにあって、揺れた髪の毛からほのかにひなたの香りがした。

「もう少し休んでなさい、荒北君。何かあったらわたしを呼んで」

 「って言えばわかるわ」と、彼女が明かした名前を口の中で転がす。不思議な響きを反芻するうちに、次第に瞼が重くなってきた。意識が再び白く塗りつぶされようとしている。先ほどと違うのは、遠ざかる色も同じ白というところだ。

 おやすみ、誰かの声が聞こえる。
 輪郭を失う景色の向こうに、高く青い空を見たような気がした。





道の上





荒北さんの、粗削りで剥き出しの生き方は本当に格好いいと思います。
お誕生日おめでとう。

2014.04.02 夏月