部屋の真ん中に仁王立ちになったまま、吐き出した息は思いの外大きな声となって部屋中に響きわたった。
 唐突な叫びに反応してか、背後で床拭きワイパーを滑らせていた気配が止まる。
 ぐるんと勢いをつけて振り返れば、そこにあるのはまじまじとこちらを見つめる三白眼。わたしはいぶかしげな顔をした彼を睨みつけ、カーテンを取り払ったガラス窓に人差し指を向けた。

「ちょっと不破、素手で窓にさわったでしょう。さっき洗ったばっかりなのに!」

 指さした先のガラスには、クリーナーで拭いた軌跡に沿って直線的な跡が残る。目を凝らして見れば、その上に陽光を反射して白く浮かび上がる小さな汚れが散在していた。
 言わずもがな、これは指紋だ。その主の候補は、わたしをのぞけばただ一人に絞られる。

「見なさいよ、くっきり跡ついちゃってるじゃない!」
「ふむ」

 床拭きクリーナーの柄頭に両手を重ね、不破は窓ガラスにじっと目を向けた。とがめられているにも関わらずまったく堪えていなさそうな態度は、彼らしいと言えばその通りだ。

「汚れたのならもう一度拭けばいいだろう。の右手にあるものはなんだ」
「ガラス用のクリーナーだけど、そこじゃない。わたしが言いたいのは、なぜ拭いたばかりの窓に素手で触るのかってことだっ」
「なぜ? ベランダへ出るのに、窓を開ける以外の方法があるのか。ガラス戸の通り抜け方など、オレは知らないぞ」
「そういうことじゃ、ないんだってば……!」

 成立しない会話のキャッチボールに、思わず深いため息が漏れる。無言で顔をしかめるわたしを見て、不破はこてんと小首を傾げた。30歳目前の男の仕草ではないはずなのに、彼がやると不思議と違和感がないのは、普段から浮き世離れした雰囲気をまとっているからか。この男、いろいろとずるい。

「なにをそこまでかみつくことがある。どれだけきれいにしようと、遅かれ早かれガラスに指紋はつくだろう。そうやって怒っている間に、汚れを拭いて次へ移動した方が効率的だと思うが」

 腹が立つ、けれど納得してしまった。

 そういえば、こんな風に職場の掃除をするに至ったいきさつも似たようなものだった。仕事の資料を取りに研究室へ足を運んだら、なぜか一人で掃除をしていた不破に『一緒にやった方が早い』という理由で引っ張り込まれたのだ。横暴なお誘いに当然抗議をしたけれど、資料を探すついでだと言われてしまったらなにも返せなかった。
 結局わたしも頭でっかちな研究畑の人間だ、正論で挑まれたらかなわない。そして、悔しいことに、わたしは理屈の投げ合いで不破に勝てた試しがなかった。

 くすぶる気持ちの渦を飲み込んで、二酸化炭素と一緒に吐き出した。わたしがクリーナーを握りなおしたのを見てか、背後でも床拭きを再開したらしい音が聞こえる。


 12月31日、大晦日。一年を締めくくるこんな日に、理詰めで変わった同僚と一緒に、ろくに片づいていない研究室の大掃除をしている。
 ずいぶんとしょっぱい年末になってしまった。けれど、それをいとわしく思わないのは、わたしがこの変人博士をどこかで気に入っているからなのだろう。
 ガラスの表面に浮く彼の指紋をふき取りながら、ぐうの音も出ないまっとうな指摘を反芻して、どうしようもなく口元は緩んだ。


「む、なにを笑っている、
「いえ、別に。ただ、こんな年の暮れかたも悪くないと思っただけで」
「……おまえもよくわからないやつだな」

 眉根を寄せた不破がこちらを振り返る。滅多なことでは動じない彼の表情を変えられた事実だけで機嫌が上方修正されるのだから、わたしも大概お手軽な女だった。




 ――日付が変わるまであと10時間。のちにこの日が不破の誕生日だと知ったわたしは、「教えてくれればよかったのに!」と再び彼に勝てないキャッチボールを挑むことになるのだが、それは今年が幕を下ろした後の話である。





フィンガープリントプソディ





窓ガラスに指紋をつけたつけないで不破くんと言い争う女の子の話。
約2年ぶりの笛!創作でした。不破くん誕生日おめでとう。

2013.12.31 夏月