珈琲を注ぎに行くのと同じ調子で席を立った上司が、珍しく鞄など持っていたので、思わず声をかけてしまったのだった。
 立ち止まってこちらを振り返る表情は普段と同じ、低いトーンの真顔。小首を傾げるような仕草が妙にかわいらしい。
「不破主任、どこか行くんですか?」
「ああ、東京へ」
 帰省がてら、少年サッカーチームの練習試合に招待されているのでな。しれっと返ってきた答えに、面食らって言葉を失う。瞬きを何度か繰り返したわたしをみて、主任はさらに首の角度を深くした。
 その身を覆うのは、黒の長袖インナーとチノ・パンツ、それと使い古された白衣だけ。ついでにいえば、足下は所内履きにしているサンダルだ。どう考えても、年の瀬の寒波に襲われる屋外を歩く格好ではない。冗談かとも思ったけれど、主任はジョークの類を口にする人種ではなかった。すなわち、これはまごうことなき本気なのである。
「……あの、主任、一応申し上げますが、その格好で外へ行くのはちょっと、」
「む……そうか、白衣が汚れるな」
 そこではないのだけれど、と指摘したい衝動に駆られたのを、どうにか胸の内に押しとどめる。
 今はとにかく、この格好が外出するのに不適当だと納得してもらうのが先決だ。無造作にハンガーラックにぶら下がるコートとジャケット、マフラーを手にとって、机二つ向こうの位置で立ち止まる主任に押しつける。
「何でもいいです、外行くならこれ着てください。……あと、靴も」
 コンビニにお昼を買いに行くのとは違うんですよ、と小言めいたおまけを付け加えたわたしに、着替えを終えた主任が、脱いだ白衣とともにじっと視線をよこす。今度はこちらが首を傾げる番だった。
「……いや。俺の周りには、他人をかまうのが好きな奴が多いなと思っただけだ」
 表情から疑問を感じ取ったのか、主任が視線をはずしながらつぶやく。わたしの知らない、世話焼きの誰かに面倒をみられる彼の日常を思い描いて、たまらず吹き出した。きっと、その人もさぞかし苦労していることだろう。
 器用にも片手でマフラーを結ぶ不破主任に、自然とこぼれ出た声は自分でも驚くほど穏やかだった。「東京、楽しんできてくださいね」
 何かをいいかけて、口をつぐむ。不破主任は、一瞬視線を落としてから、再びわたしをまっすぐ見下ろした。
「そのつもりだ。ではな、。良い年を迎えるといい」
 言い終わると同時、不破主任はきびすを返して背中越しに片手をあげた。実験の始まりを告げるときのような、迷いのない動きが、わたしに対する挨拶なのだと理解するまでに一拍間が空く。「……よ、良いお年を」
 声に出したときには主任の姿は扉の向こうだった。いつになく柔和な雰囲気を反芻して立ち尽くしていると、誰かが廊下を猛然と駆けていくのが見えた。白衣を翻していった人影は、不破主任の歩き去った方へ向かっている。「オイ不破ァ! テメッ、帰省するなら事務仕事全部片づけてからにしてくれナァイ?!」響く大声で、その正体が研究室の先輩だと知った。
 なんだか、急に、なにもかもがおかしく感じられて、一人の研究室内でわたしはくすくすと笑った。早く仕事を終わらせて、予定より少し早いけれど、実家へ戻ろうかと計画を練り直す。
 年明けに渡すおみやげはなにがいいだろう。先輩にも、何かからだに良さそうなものを買って来よう。そんなとりとめない空想に彩られて、あとわずかの“今年”が過ぎていく。





スラップスティック・エキスプレス





今年も最後の1日となりました。
全く関係のない話になってしまったけれど、不破くん誕生日おめでとう。

2014.12.31 夏月