※※名前は出ませんが、別作品の某キャラクターが脇役として登場しますのでご注意ください※※




 どうしてここにいるんだろう。
 両手で鍋の取っ手を提げ、スモークガラスの扉を見上げながら、今更ながらに途方にくれた。
 室内から、絶え間ない物音と、時折大きな声が漏れ出ている。
 部屋の番号が書かれた大きなプレートの下、差込式のパネルが『不破大地教授』と主人の名前を示すのをぼんやり眺めて、わたしはそこに立っていた。
 一年の締めくくりの日。ここは、休みのはずの研究所の一角だ。
 
 
 
 始まりは三日前、勤務先である所内のコンビニエンスストアの営業最終日にさかのぼる。
「……今日で終わりなのか」
 会計のときに、やたらと頭の辺りに視線を感じて、何かと尋ねてみたら、返ってきた答えがこれだった。彼の白目がちな双眸は、わたしの頭ではなく、その背後に掲示された『本日最終日』の張り紙を見ていたらしい。
 年内の営業が最後というだけであって、閉店するわけではない。そのあおり文句はどうかと思い店長にも進言したが、「危機感煽られたほうが商品のはけがいいから」という理由で、ポスター掲示は決行された。
 店長いわく『年末在庫一掃作戦』である。おかげで、レジに立つわたしは、いろんな人から閉店するのかと慌てた質問を受けることになった。
 注釈をいれ、困難を招いたことを謝罪する。一連の流れには、昼休憩を迎える前に慣れてしまった。
 だから、その人がわずかに眉根を寄せてそう言ってきたときも、さして驚きはしなかったのだ。扉でその存在を主張する六切ポスターではなく、レジの壁に貼られたコピー用紙で気がついたというパターンは初めてだな、と思ったのがせいぜいである。
 繰り返し口にしてきた台詞を喉にため、
「それは困った。大晦日におでん会ができん」
 予想外の呟きに、それを嚥下した。
 おでん会。
 言葉を反芻して、思わず左隣にあるおでんの鍋を見遣った。ついさっき、そこから一パックよそって彼に渡したばかりである。
 目の前の男性――仮に三白眼さんとする――は、顔は知っている・という程度のお客さんだ。必要以上の会話を交わしたことがなかったから、どんな人なのかまで知る機会は、これまで得られずにいた。
 だから、これが、初めて知る彼のパーソナルデータである。
 好きなのか、おでん。
 思わずまじまじと彼を見返してしまった。三白眼は揺らがない。無表情に近い真顔から、その意図は読み取りがたかった。
「……あの、通り向こうのコンビニさんなら、年末年始も開いてると思いますが」
 近隣のライバル店を勧めるのは職場に対する裏切りかと一瞬思案したが、彼が望むおでんはそこにあるし、実際多くの所員はそこを使用すると思うのだ。
 しかし、彼はふるふると首を横に振った。
「俺が食べたいのは、この店の味付けだ。以前向こうの店も試したが、塩気がやや足りなかった」
「味付け」
 パッケージ化された出汁をお湯に投入しているだけなのだが。
 もちろん、件の店とは会社が違うので、味が違うことは頷ける。だが、そこまで味を求めるのなら、自分で作ったらどうなのだと思わないではない。
「おい、不破ァ! レジ詰まってるんだけどォ!?」
 頭の向こうからにゅっと腕が生え、目の前の彼の頭頂部を手刀が直撃する。
 よける素振りも見せず、押されるがまま首が前に折れた。思わずのけぞったわたしに向かって、彼の背後から覗き込んでくる人がある。
 また三白眼だ、などと考えているのがばれたら起こられそうだ。
 区別のために、仮に下睫毛さんとしておく。
「こいつがごめんねェ。気にしなくていーヨ」
「だが、大晦日のおでんが」
「るっせ! おでんより会計報告の締め切りを気にしてくれナァイ!?」
 下睫毛さんが、三白眼さんを引きずって店を出て行く。口調は荒々しいが、自動ドアから出て行くときに「あーっしたァ!」と男らしい挨拶をくれたあたり、悪い人ではないのかもしれない。
 呆然と二人を見送ったのも、わずかの間のことだった。お願いします・と声をかけられて、わたしは次のお客さんの応対に意識を集中させる。
 商品をレジスターにかけながら、頭の片隅には、三白眼さん――基、不破さんのことがこびりついていた。
 
 
 
 そうして、今、ここにいる。
「……なにやってるんだろう」
 零れた言葉に、今更のように刺されている。大晦日に、休暇に入ったはずの職場まで来て、頼まれてもいないお鍋を引っさげて、研究室の前に立ち尽くしているのだ。
 休暇というのは主に事務方職員の話で、研究そのものに年末年始などない・とは、いつか漏れ聞いたお客さんの言葉だ。その通り、館内は年の瀬にも係わらず人の気配が多い。だけど、私のように曖昧な目的で所内にいる人間は、他にはいないだろう。
 ずっしりと重い手元に視線を落とす。
 鍋の中身は、自宅で仕込んだおでん。ここにくるまでに寒風に曝されて冷めてしまっているが、少し火にかければできたての風味を取り戻せる範囲だろう。
 出汁は、自力で調整した。
 毎朝の仕込はわたしの担当だ。舌で覚えた味の再現はそう難しいことではなかった。
 ――だが、これを、誰に食べてもらうというのだろう。
 仮に、思い描いたとおりに渡せたとしたって、喜びより戸惑いが勝るのは当然の反応だ。
「……帰ろうかな」
 うどんでも投入すれば、年越しのお供にもなってくれるだろう。
 きびすを返そうとした、そのときだ。

「……誰かは知らんが、俺のラボに何か用か」
 
 開け放たれた扉の向こう、思った以上に近くにあった無表情に、言葉が出てこなかった。
「――だから、おめェは一体何を……って、アンタ、コンビニちゃん?」
 いつぞやと同じく覗き込んで、目を丸くしたのは下睫毛さんだ。コンビニちゃんなんて呼ばれてたのか、と動揺しつつも会釈する。
 不破さんが、背後の同僚を振り返った。
「コンビニ? しかし、あの店員はもっと睫毛が短かったはずだが」
 まさかこんなところで仕事中の化粧のシンプルさに言及されると思っていなかった。女心には大ダメージである。
 心の底から帰りたい。虚ろになったであろうわたしの顔を見て、下睫毛さんがなんともいえない表情を浮かべた。
「あー、その、うん。こいつの言うことは全部無視してくれていーからネ。んで、コンビニちゃんは、今日はどうしたワケェ?」
 尋ねられて、返事に詰まる。言うべき言わざるべきか、決めるより早く、不破さんがわたしの手元を指差した。
「おでんだな」
 なぜわかった。
「……もしかして、この間のアレ気にしてくれたァ?」
「気にした、というか。……同じ味になっていると思うので、良かったら」
 ここまで来たら、もう自棄だ。顔は上げられないまま鍋を差し出す。
 下睫毛さんはまだ怪訝な顔をしている。彼の返事を待っていると、不意に、提げていた重みが消えうせた。
「ありがたくいただこう。コンロにかければ問題なく食べられそうだな」
「……へ、」
 間抜けな声が漏れ、思わず視線を上げた。
 不破さんは、既にこちらに背を向けており、「コンロはどこだ?」と戸棚のほうを見回している。
 下睫毛さんが、既になじみとなりつつある調子で、彼に噛み付いていた。が、それもすぐに終わり、長い溜息を残して棚のほうへ歩いていく。
 一連の出来事を、わたしはぽかんと口を開けて眺めていた。
 想像しうる限りで一番円満な展開を迎えられたはずだ。だのに、どうにも狼狽してしまう。
 ――とにもかくにも、目的はこれで達成した。今度こそ、本当に帰ろう。
 そそくさときびすを返そうとしたわたしの肩越しに、
「む、食べていかないのか」
 不破さんの声が飛ぶ。
 無茶というか、空気を読まないというか。予測のつかない彼の言動に、しかしどこか慣れてきた気がして、苦笑が浮かんだ。
「いえ、わたしは、」
「おでんは、大人数で食べる方が美味いと聞いた。俺とあいつの二人では足りん」
「なァんか引っかかる言い方なんだけどォ」
 姿の見えない下睫毛さんが、棚の向こうから抗議するのを、不破さんはさらっと流す。無言のまま、じっと見つめられて、断りの言葉が出てこない。
 おでんの入ったお鍋を抱えて、彼はわたしを待っている。まっすぐ刺さる視線が質量を持ったかのようだ。
 表情の読めない、そのくせやけに雄弁な双眼。
 ――観念したら、自然と笑みが浮かんだ。
 わたしが頷いたと同時、戸棚の足元から、「おめェも手伝えよ!」と下睫毛さんの叱責が飛ぶ。ついに声を立てて笑ってしまい、立ち上がった彼に不破さんもろとも怒られた。

 
 
 



薄口しょうゆに愛をこめて





コンビニおでんは関西風の味付けらしいです。寒くなりましたね。
今年も祝えてよかったです。不破くん誕生日おめでとう。

2015.12.31 夏月