静かな夜である。
 わたしは広い風呂を一人で独占し終えて、自室へ帰る途にあった。あとは寝るだけという状況で、血の廻りも気分もよい。
 ぺたぺたと、自分の足音が、誰もいない廊下に響きわたる。皆が寝静まり、他に生き物の気配もない本丸の環境が、日中の疲労と緊張をやんわりと溶かしていく。


 ふと、軒先の向こうを見上げて、ずいぶんと空をまばゆく感じた。小首を傾げ、目をすがめて、ようやくその理由に気づく。
「……すごい星」
 墨を流し込んだような闇を背景に、小さな明かりが無数に瞬いている。砂粒を光らせて、空一面にぶちまけたかのようだった。大小、強弱様々なそれが、果たして何の星座を形作るのかも判別がつかない。
 歩みを止めて、縁側に腰掛ける。遊ばせた足を夜の空気が撫でていく。湯上がりの体にはその冷たさが心地いい。荷物を脇に置いて、そばの柱に寄りかかれば、見事に長居の構えが整った。
 誰かに見つかったら叱られそうだなあと考えて、笑いが漏れる。けれど、しばらくその心配は無用であった。ほとんどの刀剣男士が遠征に出ており、本丸に残るのは夜の早い短刀たちがほとんどだ。果たして、遠征部隊の帰還の報は、まだ受けていない。
 あ、だか、わ、だか、判別のつきづらい一音を、肺に残った空気に乗せて吐き出すと、思った以上に長く響いた。人に聞かれたらぎょっとされるだろう、サイレンのような声を誰に届けるでもなく上げながら、ずるずると柱にもたれ掛かる。預けた重みは引力にとらわれて、最終的に板張りの廊下に寝転がる形で止まった。
 からになった胸一杯に、今度は酸素を取り込む。急激に空気を入れ替えたせいか頭がくらくらした。思わず目を閉じ、しばらくしてからゆっくり開くと、一面に広がる星が音もなく動いているように思えた。見つめているとおかしくなりそうで、再び瞼をおろす。
 全身を取り巻く浮遊感は、もとの時代にいた頃、プラネタリウムで感じたものと似ていた。人工の空に感動を覚えていた頃が、今となっては懐かしい。あの爽快感は、作られたもの故だったということに気づいたのは、この任についてからだ。本物の“満天の空”というのは、圧倒的なまでの光で恐ろしくすらあるものだった。ここへ来て初めての夜の衝撃を、わたしはいまだに忘れられない。
 それにしても、ほんとうに、今夜はすごい星空だ。

「……そうか、」

 ふと、気づく。夜の空に、これほどまでにはっきりと、小さな明かりが浮かんで見える理由。
 刀剣たちを過去に送り、戦いを終えた彼らを出迎える。繰り返すうち、同じ一日を辿り続けているかのように感じていた。
 それでも、確かに、時間は巡っているのだと、満点の空が訴えている。

 どれほどそうして転がっていたのだろう。とろり、と眠気が襲ってくる。さすがにここで眠るのはまずい。そのことはわかるのだが、やはりとがめる者がないというのは大きい。誘われるように瞼は重くなり、動きもどんどん鈍くなる。
 夢とうつつの境目にまどろみ出した、そのときだった。

「おや、このようなところにいるとはな、主よ」

 静かに、けれど凛とした声がして、それまでの重みが嘘のように、ぱちりと目が覚める。声の方に首をめぐらせ、見えた色は、夜の闇にあっても冴える青だった。
 彼が一歩を踏み出すのにあわせ、纏う鎧が澄んだ音を立てる。身を起こす前に、長い腕が背中に回って、わたしは抱きしめられたまま再び廊下に横たわることとなった。

「み、かづき、あの、」

 返事もなく、三日月は肩口に顔を埋めてくる。わたしは戸惑いと驚きで彼を押しのけることもできずにいた。。
 長い遠征に出てもらっていたはずが、いつのまに帰還していたのか。狩衣から外のほこりっぽい匂いもしないことを見ても、それなりに時間は経っていたらしかった。仕事を終えはるばる帰ってきてくれた刀剣たちを、真っ先にねぎらえなかったと内心反省する。
「申し訳ない、しばらく前に帰ってこられたようなのに、気づけませんでした」
「ああ、もう夜も更けていたのでな、なるべく騒がせないようにと、光忠が」
「燭台切が、なるほど。彼らしいですね」
 そうだろう、と応じる声が笑みを含む。穏やかな響きが耳に心地いい。「それで、俺が主への報告を請け負ったわけだが。まさか、俺たちの帰還に気づかず、こんなところで寝ているとはなあ」
 愉快そうに言われて返事に窮する。天下一美しいと言われるこの刀は、わたしが彼らを出迎えなかったのを存外根に持っているようだった。口を開けば、声音は図らずも拗ねた響きをはらむ。「……だから、悪かったと言っているでしょう」
「いや、よいのだ、もう。その顔を見たら、すべて些末ごとと思えた」
 わたしを抱きすくめる三日月の腕に力がこもる。夜着の下で、風にさらわれた熱が舞い戻ってきたようだった。
 彼の肩越しに星の散らされた空を見上げる。小さな光は変わらずに、ちかちかと目一杯瞬いている。きれいだ、と思ったから、素直にそのままを口にした。わずかに身を浮かせた三日月が、わたしの顔をのぞき込む。口角をあげて、彼の背後を指さした。「空、すごい星ですよ」
 つられて振り返った三日月が、ああ・と納得したように声を上げる。
「今宵は、朔だったか」
 笑みを含んだ声が、夜風に乗る。手を伸ばして頬にふれれば、彼はゆっくりとこちらへ向き直り、誘導するままに顔を寄せてくれた。
「お帰りなさい、三日月」
 深い青をたたえて、一対の月が揺れる。間近にそれを見れば、彼の背後に広がる星空もすっかりかすんで見えた。なるほど、月明かりが星の光を食うというのは真実だったようだ。
「……ただいま戻った、我が主」
 会いたかった、という言葉はのどの奥に飲み込んだまま、瞼を落とす。閉ざした視界には月も星も写らず、ただ降ってくる青い熱を感じていた。





月がないので星がみえます





刀剣乱舞夢企画「きみがため」さまに提出。


2014.05.16 夏月