ぽろり、とポケットから何かが零れ落ちたことに気づいたのはわたしだけで、それはきっと彼の後姿を眼で追っていたからだった。

 あ・と声を上げて立ち止る。友達と談笑しながら歩いている落し物の主は背後に気づかないままだ。昼休みでざわついた廊下は人通りが多い。短い距離を急いで床に飛びつけば、わたしの急な行動にぎょっとした何人かが身をよじって避ける。
 拾い上げたそれは、小さいけれど精巧なフィギュアのついたストラップだった。ひもは切れていないから、何かの拍子で外れてしまったのだろう。彼が身近に置いていたと思しきそれが、ゲームのキャラクターを原作に忠実にかたどりファンの間で高い評価を得るレアグッズであることは知っていた。
 顔を上げ、見慣れた丸い後頭部に目を向ける。彼が笑うのに合わせて跳ねた毛先が時折揺れた。後姿にばかり覚えがあるのは、面と向かって話したことがないからだ。一言を音にするのに体が震え、心臓がどきりと大きく鳴った。
 息を吸って、止める。深い谷を飛び越えようとしている気分だ。踏み込め、踏み切れ、

「お、小野田くん!」

 ――飛びだした。



*****





 彼のことを気にするようになったきっかけは、たまたま会話を耳にしたことだった。
 人間の耳は、本人の興味のある単語をくっきりと拾う性質があるらしく、わたしはふと聞こえたアニメ番組のタイトルに反応してただの環境音の一部だったものを人の声として認識した。素早く振り返った先にいたのは、別の男子と喋っている丸い眼鏡の男の子。直感的に、彼はわたしと近い趣味を持つ子なのだろうとわかった。

 いわゆる“隠れオタク”として中学3年間を過ごしたわたしは、高校生活に一つの希望を抱いていた。
 自分がマンガやアニメを好んでいるとオープンにする勇気はない。女子のグループ社会の中で、徒党を組めないオタクというのがいかに弱い立場か、中学時代に十分思い知った。自分の趣味をひた隠しにして周りに合わせる人付き合いの仕方は、残念ながらもう癖になってしまっている。一時復活の噂のあったアニ研にも、入部の名乗りを上げることさえできなかった。
 それでも、ひとりでもいいから、“楽しいこと”を分かち合える友人が欲しかった。二人だけのときに、こっそりと好きなものについて言葉を交わせる人に出会いたいと思っていた。
 ――もしかしたら、彼がそうなのかもしれない。
 そのとき覚えた高揚は、そう簡単に忘れられるものではない。



 ほどなく眼鏡の男子の名前は判明した。小野田坂道くん、自転車競技部に入っているという。その名前に聞き覚えがあり、記憶を探ってみたところ、なんと彼は今年のインターハイ自転車競技の優勝者だった。
 予想外の正体に驚くと同時に少し気おくれしてしまう。小野田くんと話すということは、かの有名な自転車競技部のヒーローに声をかけるということだ。出る杭になるまいと必死な生活を送っていたわたしには高すぎるハードルだった。
 けれど、彼と趣味の話をしてみたいという願望が、消えることはなく。
 そうしてわたしは、小野田くんにひそやかな憧れを抱くようになった。



*****





 飛び出した声は戻らない。早まる鼓音が頭の中で響くのを聞きながら、小野田くんの足が止まるのを見た。
 彼がこちらを振り返る。レンズ越しに、色濃い瞳と視線がかち合う。怪訝そうな顔は、わたしに覚えがないからだろう。
 一歩踏み出してしまえば、近づくのは案外簡単だった。遠巻きにしか見たことのない小野田くんの顔を見上げて、「こ、これ、」とどもりつつも、手の中のストラップを差し出した。

「落としたよ、黒マニュ」

 とたん、彼の眼はまん丸く見開かれた。そんなに落し物が意外だったのだろうか、と不思議に思っていると、小野田くんがずいと身を乗り出してきて、思わず肩を竦める。

「き、君、知ってるの、マニュマニュ!」

 その言葉で、わたしは自分が“語るに落ちた”ことを悟った。

「うれしいなあ、女の子でマニュマニュ知ってる子に会ったの、初めてだ!」

 小野田くんは心底嬉しそうな笑顔をはじけさせて、ストラップを乗せたままのわたしの手を握りこみ、握手にしては派手な動きで上下に振った。
 彼の明るい声と大きな動作は、もれなく人目を引いている。会話の内容を少し聞けば、それがアニメ乃至ゲームのヒット作マニュマニュについての話だとすぐに分かるだろう。そこにいるわたしが作品に対して無知だと考える方が少数派だということは言うまでもない。
 思いもしない形で“隠れオタク”を卒業してしまった。秘密の友達が欲しかっただけなのに、いったいどうしてこうなったのだろう。

「おい、小野田。いい加減、手ェ放してやれよ」
「肝心の落し物を受け取ってへんで、小野田くん」
「えっ、あ、そうだったね! 本当にありがとうございます、あの、お名前聞いてもいいですか!?」

 ――でも、小野田くんの笑った顔があまりにも眩しいから、

、です。はじめまして、小野田くん」

 彼に連れられて新しい世界を開いていくのは、さぞ楽しいことだろうと思わずにはいられないのだ。





ワンダーランド・ヒーロー





小野田くんと話してみたい隠れオタクの女の子のお話。ちなみに、彼女が目撃したのは今泉君へのラブ☆ヒメ布教のワンシーンです。
誕生日関係ない内容ですが、小野田くんをお祝いするつもりで書きました。ハッピーバースデー!

2014.03.07 夏月