教室の隅、窓際の一番後ろで、彼女はいつも本を読んでいた。 一度もかかわったことのなかったその女子に、何がきっかけで話しかけようと思ったのか、はっきりとしたことは覚えていない。自習時間が退屈だったのかもしれないし、黙々と本を読み進める姿勢が妙にうつくしく見えたせいかもしれなかった。 「推理ものが好きなのか」 瞬きもそこそこに文字を追っていた彼女が、顔を上げてこちらを向く。正円の、黒い瞳にまっすぐ見つめられて、妙な緊張を覚えた。あわてて浮かべた笑みは少しいびつになっていただろう。「たまに見かけるけど、いつもミステリーのタイトルを読んでるからさ」 「そうね、最近はずっと推理小説ばかりだわ」 ページの間にしおりを挟んで、彼女は本を閉じた。男のものとは違う、細くて柔らかそうな指先が表紙を撫でる。赤い大きな額縁の中に閉じ込められた、島の海岸とネイティブ・アメリカン。読み込んでいるのか、カバーはだいぶよれていた。 古典として知られるその本は、俺も以前読んだことがある。けれど、最後に明かされる真実にあっと驚かされた記憶はあるものの、こんなにぼろぼろになるまで読み返そうという気にはならなかった。 俺たちが、同じ小説を読み、それぞれ抱く思いの違い。この本の何が彼女の琴線に触れたのか、好奇心が首をもたげる。 「なあ、それ、どんなところが面白かった?」 「……読んだこと、あるの」 「ああ、結構前に一度だけだけどな。俺も、読書は好きなんだ」 もちろん、自転車にはかなわないけれど。心の中でそう付け足して、彼女の言葉を待つ。 「そうね」 と、小首をかしげる仕草に合わせて、長い髪の毛が一房頬に流れた。 「『いのちが終わる』ことの結末を、色々と考えることができるところ。わたしは、それが知りたくて、推理小説を読んでいるから」 そう言った彼女の、黒い瞳が、鮮烈に印象づいた。 ごくりと唾を飲み下す。自分が彼女に圧倒されていることに、今更ながら気が付いた。 「……それは、『死ぬってどういうことだろう』とか、そういう話かい?」 「いいえ、死生観の問題ではないわ。わたしが知りたいのは、生きている人の話。結末をつけるのはいつだって生きている側なのよ」 その言葉を、たぶん俺は、ずっと忘れられないだろうという予感があった。 ここは一体どこだったろう。中学校の、自習中で騒がしい教室の片隅が、彼女に飲まれてそこだけ空気の密度を増している。 目を向けると、彼女は薄く微笑んでいた。老成しているとも、自己愛にまみれた空想とも思える台詞を、どうしてこうも自然に口にできるのか。彼女の生きてきた15年間と、その眼に映る景色を見てみたくなる。 「それは無理な相談ね。わたしには自転車の上からの光景が見られないのと同じように、新開くんがわたしと同じものを見ることはできない」 白い指が動く。しおりを外してページを開くと、規則正しく並んだ活字が再び空気に触れる。顔を俯けた彼女は、こちらを見ることなく、まだ笑みを含んだ声で言った。「今度、レースがあるんでしょう。頑張ってね」 口を開いた瞬間に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。がたがたとクラスメイトが席を立つ音が、否応なしに俺と彼女の間にあった比重の重い空気を霧散させていく。 「新開、」 と、呼ばれて振り向くと、隣のクラスの寿一がドアから顔を覗かせていて、慌てて返事をした。頭には、魚の小骨のような違和感が引っかかっていたけれど、その正体がなにか、すぐにはわからない。彼女は、ばたばたと騒がしくする俺には目もくれず、閉ざされた島で繰り広げられる物語に没頭している。 翌週、彼女は家の都合で転校していった。 違和感の中身に気が付いたのは、静かに本を読む横顔がぼやけて思い出されるようになって、しばらく経ってからだった。
***** たった今読み終えた本の表紙を、指先で撫でてみる。赤い額縁とネイティブ・アメリカン。動作をなぞっているつもりなのに、どうしてか、あの細い指と同じ軌跡をたどることはできない。背後で、同級生6年目になる男が部活の資料をめくる音がして、俺は手元に目を落としたまま口を開いた。 「なあ、寿一。って女の子、知ってるか?」 「む、どこかの学校のマネージャーか」 間髪入れずに返ってきた言葉は、問いかけの前に想像したままのものだった。 「いいや、中学のとき一緒だった子だよ。今どうしてるんだろうと気になったんだが、やっぱり知らないよな」 「そうだったか。すまない、その名前には聞き覚えがない」 いいんだ、と笑って見上げると、ソファの後ろに立つ寿一はいつも通りの真面目な顔をしていた。その表情が、ここが日常と地続きなのだと思い出させてくれて、少しだけほっとする。 「親しい友人だったのか」 と、妙に神妙な口調で尋ねられて、首を横に振る。友人と呼べるほど、彼女のことをよくは知らなかった。向こうは、俺のことを知っていたようだけれど、その真相も、彼女の消息と同じく謎のままだ。 「――親しい友人に、今ならなれたかもしれねぇけどな」 静かな声が耳の奥によみがえる。『結末をつけるのは、いつだって生きている側』。 「そうか、」 寿一が頷いて、会話はそこで途切れた。 しばらく弄んでいた文庫本をローテーブルの上に投げ出し、ソファから立ち上がる。 「ウサ吉に餌やってくる」 孤島で起きる殺人事件の代わりに新鮮な野菜の詰まったビニール袋を握りしめて、俺はまっすぐ談話室の扉を目指した。
新開さんと本の虫の奇妙な縁の話。 参考文献:『そして誰もいなくなった』アガサ・クリスティ著 ハヤカワ文庫刊 2014.04.08 夏月 |