は、菅原孝支にとってさまざまな肩書を持つ人物である。
親戚、幼馴染、大学の先輩、ルームメイト。
中でも、一番新しく追加されたのが「恋人」というもので。
ルームシェア開始当初よりも近い距離で並んで歩けることが、彼にとっては特別なことだった。

さん、お風呂あいたよ」
「あ…うん、ありがとう」

その彼女が、最近何故だかぎこちない態度をとってくる。
今も正面から目を合わせないまま、自室に走って行ってしまったの背中を見送って、菅原は眉根を寄せた。
自分は彼女に何かしただろうか。
振り返っても、特に思い当たることはない。これでも、せっかく恋人として受け入れてもらったのに、つまらないことで嫌われてしまってはたまらないと、細心の注意を払って接してきたつもりだ。それなのに、付き合う前よりぎこちないとはこれいかに。菅原はタオルで頭をがしがしと拭きながら、小さく溜息をついた。


同居を始めた時から、恋慕を抱いていたわけではなかった。
幼いころ隣家に住んでいた彼女は、菅原にとっては年長者の代表だった。いつも彼を導いてくれる、2歳上のお姉さん。その姿は大人への憧憬と強く結びついて菅原の記憶に植え付けられた。親戚の集まりで年に1,2度顔を合わせるはやはりいつも大人びていて、彼の中の憧れは18年間質を変えることはなかった。
変化のきっかけは、春から始まった共同生活である。
プライベートな領域の線引きをしているとはいえ、ともに過ごす時間が増えるほど、菅原が知らなかったの一面が明らかになる。それは、彼に新鮮な驚きを与えると同時に、等身大の彼女を知る楽しみに気づかせた。
すっかり自分の方が見下ろす高さに立った目線から見える、の笑顔が前よりも身近に感じられる。
憧れが愛情に変わるのに、長い時間は必要なかった。
大事にしたい。笑っていてほしい。
それなのに、ここ暫く彼女の満面の笑みを見ていないことに気づいてしまった。

「…ちぇ、難しいな」

唇を少し尖らせて、菅原は冷蔵庫を開ける。
ミネラルウォーターのボトルキャップを捻るのに重ねて、浴室のドアが閉まる音がした。


*****


最近、上手くふるまえなくなっている。
はタオルを畳む手を止めて、深く溜息をついた。
小さいころから弟のように可愛がってきた同居人から、『付き合ってほしい』と交際を申し込まれて2週間。菅原の優しさも強さも、ルームシェアを始めてから十分に感じていたから、その彼がを一番大事だと言ってくれたことは本当にうれしかった。
そばにいて居心地がいいのも、彼の穏やかな笑顔を愛しいと思うのもまぎれもない事実だ。
だというのに、はどんどん追い込まれていくような感覚にとらわれていた。
以前は大丈夫だった距離に緊張する。どんな風に話していたか分からなくなって話題を振れない。
恋人としての関係の進展はおろか、は菅原の笑顔が困ったように揺らぐのを恐れて顔を見ることすらまともにできなくなっていた。

(情けない、高校生の初恋じゃあるまいし)

とはいえ、異性と交際した経験が殆どないに行動規範となるようなものはなく、自問自答はぐるぐると彼女の頭を堂々巡りするばかり。
こんな態度は菅原にも失礼だということはわかっている。は深いため息とともに、畳み掛けのタオルを額に押し付けた。
視界をふさぐ彼女の耳に、玄関のサムターンが回る音がする。
ただいま、という声に慌てて顔を上げたものの、靴を脱ぎながらの姿を目にした菅原は、ぎょっとして眉根を潜めた。

「…さん、泣いてるの?」
「ち、違うよ、孝支君…えと、お帰りなさい」

が笑って見せても、菅原は険しい表情を崩さない。部屋に上がってまっすぐ歩み寄ると、彼はソファの隣に腰かけた。反射的に引いた体は手首を押さえられて止められる。

「誤魔化さないで。何かあったのなら教えてほしい」

真剣な眼差しに射抜かれて、なんでもない、と言おうとした口をつぐんだ。
きっと自分が何を言っても、彼ははぐらかされないだろう。
だからと言って、こんな悩みを正直に打ち明けるのはいくらなんでも恥ずかしい。
「あー」だの「うー」だのと意味を持たない唸り声をあげながら、焦るの思考回路が徐々に出口を見失う。

「…最近、さん元気ないですよね…もしかして、俺のせい?」
「そ、そんなことないよ…!ただ、私が、その」

少し寂しそうな菅原の言葉を勢いよく否定したのはいいものの、その先が続かない。主に見栄でコーティングされた煩雑な感情がを口ごもらせる。

さんが?」
「―――っ、な、なんか気恥ずかしくて孝支君のことまともに見られないの!!」

優しく菅原に促され、はタオルで真っ赤な顔を隠して一息に吐き出した。
半ば自棄になって吐露した本音に、首まで熱くなっているのが自分でもわかる。

「恥ずかしい…って、え、もしかして照れてる?」
「そんなはっきり言わないでよ…!ああもう、私格好悪すぎる!」

もし目の前に菅原がいなければ、ゴロゴロと転がりまわって紛らせたいくらいの羞恥である。冷静さを失った頭が、内容を推敲するより早くの口を動かした。

「最初は平気だったんだよ、孝支君と仲良くなれて純粋に嬉しかったの!でも付き合いだしてから、ちょっとしたことで緊張しちゃったりして、なんかいろいろ上手くいかなくて…っ。こんなんじゃそのうち孝支君にも呆れられちゃうと思うと益々袋小路で!…って、孝支君、何笑ってるの?!私変なこと言っちゃった?!」

タオルからちらりと顔を上げたが目に見えて狼狽えだす。八の字に寄った眉根に、フォローしなければと思いつつ、菅原は締りなく緩む口元を押さえることができずに視線を逸らした。自分の頬はきっと赤くなっているのだろうが、慌てる彼女はそのことに気づかず泣きそうな顔をしている。
こんな表情もいいな、などと加虐心が頭を掠める傍らで、噴出しそうな気持が喉元までせりあがる。
なんてかわいいひとなのだろう。
莫大な熱量をはらんだその衝動が、きっと『好き』という気持ちなんだな、と悟ったようなことを考えながら、菅原はに向かって腕を伸ばした。
突然のことに肩を震わせた一回り小さな体を、構わず腕の中に閉じ込める。
力を籠めれば暖かい弾力が押し返してきて、がそこにいることを実感した。

「こ、孝支く…!」
「あーもう、さんずるい、可愛すぎ。お願いだから俺以外にそんな顔見せないでよ」

後頭部に回した手でゆっくりとの髪を梳く。顔の見えない彼女が少し身をこわばらせたのが振動で伝わったが、動きを止めることはしない。

「呆れるなんて絶対ないから、大丈夫。緊張して毎日の生活がうまくいかないっていうのは、確かにちょっと困っちゃうけど…そこは、うーん、徐々に慣れていってください」

投げやりとも取れそうな軽い調子で言う菅原を、はぽかんとした表情で見上げた。
彼のふわりと溶けるような優しい笑顔に、肩の力が抜けていく。
つられるように破顔した彼女は未だにはにかんだような緊張をぬぐい切れていない。それでも、それは菅原にとって数日ぶりのちゃんとした笑みだった。
再びぎゅうぎゅうと抱き潰されそうになって、は小さく声を上げる。額に、目元に次々と降る口づけを、真っ赤になりながらも受け止めるその様に、菅原の胸が鳴った。

「好きだよ、さん。大好き」
「…っ、孝支くんって、意外とタラシだよね…!」
「えー、さんだからですよ」

からかいすぎると機嫌を損ねそうだ、と判断して腕を弛める。こちらを見上げる彼女の顔はまだ真っ赤だが、先ほどのような苦しそうな色はなく、菅原は一人ほっと息をついた。

「とりあえず、慣れるための一歩として、晩御飯一緒に作りましょうか」
「…うん、じゃあタオル畳み終わったら」

膝の上ですっかりくしゃくしゃになってしまったフェイスタオルを苦笑しながら拾い上げるの横顔がそっと和らぐ。
台所に並んだ二人の距離が、昨日よりも埋められていることに彼女が気づくのは、それから1時間後の話である。



ハイキュー!!にはまった当初から温めていたルームシェア妄想を遂に形にしてしまいました。
本命ほど書けない法則にばっちり当てはまる難産ぶりでしたがどうにか区切りをつけられてよかったです。
まだまだ小ネタはあるので、これからもちょこちょこと書きて行きたい設定の一つです。
放っておくといちゃいちゃしだす二人に私が耐えられればの話ですが(笑)
最後になりましたが、この話を読みたいと言ってくれた志乃ちゃんに感謝の意をささげます。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!

夏月