ソファから覗いた頭が時折大きくかしぐ。明らかにまどろみのふちにいるさんは、それでもびくりと肩を振るわせて、眠気に抗おうとしている。
 晩御飯の片づけはもう済んだ。二人とも風呂も済ませたし、あとはベッドへ入るだけで一日は終了する。そんな状況にありながら、かれこれ30分ほど、彼女の奮闘は続いていた。声をかけても、大丈夫・と大丈夫そうではないとろりとした口調で繰り返すさんの様子に、何となく心配がぬぐえず俺も自室へ引き上げられないでいる。

 そういえば、ここのところ、彼女はずいぶんと忙しそうにしていた。
 年度末で研究室も立混んでいるのか、自分の研究レポート以外にも書類とにらめっこをする姿を頻繁に見かけるし、夜の深い時間帯になっても彼女の部屋に灯りがついていたことは一度や二度ではない。特にこの数日は、学校が終わってから何か用事をこなしているのか、帰宅時間も遅かった。
 十分には休めていないだろうに、いったい何がさんの夜更かしの背を押すのか。
答えはわからないけれど、ひとまず彼女が寝床に入るまでは見守ろうと思った。








 ――時計の長針が文字盤上の9の字を指す。もう90度動けば日付が変わるというところまできていた。
 さんの手元で開かれた文庫本は、先ほどから一ページも進んでいない。対して、まばたきのインターバルは長くなる一方だ。

(12時を過ぎたら、寝室に連れて行こう)

 頑なに布団へ入ろうとしないさんの様子に苦笑をこぼしつつ、そう決心を固めると、俺は持て余した時間で明日の準備をするためにソファから腰を上げた。
 ダイニングテーブルのわきに下げられたホワイトボードに明日の予定を書き込む。講義は昼までで、午後の時間はカフェでのバイトに費やすつもりだ。件のカフェは、バレンタインの時期に合わせてチョコレートドリンクに力を入れている。客増を見込んで招集された臨時バイトは俺だけではないらしく、明日は随分と賑やかな勤務になりそうだった。

「そういえば」

 ふと思い出したことがあって、書店のロゴが入った紙袋を一枚手に取り鞄の底に突っ込んだ。取っ手付きの頑丈そうなものを選んだから、中身が重くなろうと持ち運びに困ることもないだろう。『彼氏に作る手作りチョコの練習ぶんを義理にあげるから、持ち帰りの袋を持参しなさい!』と、人差し指をこちらに突き付けて指示を出してきた女性の先輩との会話を思い起こす。さんとルームシェアをしている俺は、誤解を招かないチョコ処理係としてちょうどいいらしい。はっきりとその旨を宣言してくる先輩は、プライベートな恋愛相談をするのにも気楽な相手だ。
 練習をたくさん重ねたと言っていたから、明日はどっさりと義理チョコを受け取ることになるだろう。チョコレートのにおいに酔わずに済むといいけれど。
 みぞおちをさすりながら振り返れば、考え事をしている間に時計の針は頂上を通り過ぎていた。
 時間だ、彼女をベッドへ連れて行かなければ。

さん、日付変わったよ。もう寝ましょう」

 顰めた声を耳元に吹き込んで肩をゆする。重なった上下の睫毛が幾度か震え、瞬きの向こうに彼女の瞳が見え隠れした。

「……こうし、くん?」

 回りきらない舌で俺の名を呼ぶ。寝起きの浮遊感に流されているらしいさんの表情はどこか幼い。遅いから寝ましょう・と、もう一度言い聞かせるように告げれば、彼女は言葉にならない曖昧な声を上げて、一つずつ消化するようにあたりを見回した。テレビ、本棚、観葉植物……順繰りに移ろう視線が、時計を捕えたところで止まる。

「――あっ、そうだ!」

 ばちっと、まるでスイッチを押したかのように眼が丸く見開かれた。手にしていた文庫本を放り投げ、俊敏な動きで自室へ駆けこむ。数秒の間を置いて戻ってきたその手には見覚えのない箱が収まっていた。彼女の好みそうな淡い色合いのラッピングペーパーに包まれた直方体が、驚いて固まったままの俺の眼前に差し出される。
 寝起きだからか、あるいはほかの理由からか、わずかに上気したさんの顔を見て、箱の中身を直感的に悟った。

「もらっても、いいの?」
「うん、そのために作ったんだもの」

 手作りなのか、と緩む口元を横にひき、箱を受け取った。蓋を開ければ、中に入っていたのはチョコレートのかかった小ぶりなケーキ。ガトーショコラというのだと彼女の声が振ってくる。

「もしかして、最近帰りが遅かったのも、今日ずっと起きてたのも」

 自惚れで無ければ、さんは忙しい合間を縫って、俺にばれないように、この手作りのケーキを準備してくれていたのだ。
 俺の言葉に、彼女は恥ずかしそうに視線をそらして頷いた。いくらか言い淀んでから「あのね、」と柔らかい唇が音を紡ぐ。

「孝支くん、バイト先で先輩からたくさんチョコもらうことになりそうって言ってたから……せめて一番に渡したく、て」

 ――まずい、いよいよにやけた顔を誤魔化せなくなってきた。

「……さんって、時々めちゃくちゃずるいよね」

 ケーキの入った箱を丁重にローテーブルの上に置く。俯き加減のさんの腕を掴んで抱きよせ、揺れる髪に鼻先を埋めれば、甘い香りが肺をいっぱいに満たした。
 バレンタインなんて関係なく、とっくに彼女に酔わされている俺を笑うかのように、ケーキの表面にコーティングされたチョコレートが夜の灯りを反射している。




当日の朝、ふとネタが降りてきたので勢いでかきあげたバレンタイン。
一番乗りになりたいという彼女の小さな独占欲のお話でした。スガさんがやたらとヒロインに甘いのはルームシェア設定の仕様です。

夏月