放課後の教室には、もう誰もいなかった。
夏の夕日が壁をオレンジに染める室内には、山口と鞄が二人分。彼は自分の荷物を膝に抱え、揃いの学生鞄に目をやる。机のフックにかけられたままの、それ。持ち主が帰ってくる気配はまだなかった。

「…失礼します…あれ、山口さん」

がらっと音を立てて後ろの扉がスライドした。振り返れば、扉越しの廊下に一人の女生徒が立っている。帰り支度も済んでいるらしい彼女は、何かを探すようにきょろきょろと教室の中を見回した。その目的を悟った山口が少女に声をかける。

「ツッキーなら、委員会で呼ばれてるよ」
「あ、そうなんですか。せっかく部活が休みの貴重な日なのに、ついてないですね、蛍くんてば」

苦笑を浮かべた少女が、山口に手招きされるまま教室に入る。控えめに失礼します、と言った口調は、ここが上級生の部屋であることを少なからず意識しているらしかった。
彼の元へ歩み寄り、腰を下ろしたのは話題に上がっていた同級生の席である。体の向きを変えて、山口は後ろの席の彼女に目を向けた。
今日は坂ノ下でアイスを食べて帰ろうと約束しているのだ、と月島との予定を語る姿に、違和感を覚える。机一つを挟んだ先で、少しぼんやりとした表情に夕日が当たっていた。

「…ちゃん、何かあった?」

山口に声をかけられて、え、と女生徒の声が揺らぐ。自分に真っ直ぐと結ばれた焦点に、彼は内心のたじろぎを隠して微笑んだ。
少しバツが悪そうに苦笑をこぼして、少女が小首を傾げる。その仕草が自分のほかには月島にのみ見せられるものだと言うことを山口は知っていた。

「何か…ってほどのこともないんですけど。今日、ちょっと、同級生の女の子に呼び出されて」
「…ツッキーのこと?」

尋ね返せば、は俯き加減に首を縦に振った。少し尖らせた唇から長いため息をつく彼女を見れば、なかなかに困った話だったらしいことが伺える。

「『月島先輩にべたべたするな、妹のくせに気持ち悪い』って怒られちゃいました。…私としては、ちょっと腑に落ちないんですけど」
「…あー、大変だったね、ちゃん」

話を聞いて山口の顔にも苦笑いが浮かぶ。女子のそういう抗争って怖いよなあと思いつつ頷く彼に、は拗ねた口調で愚痴をこぼした。

「兄妹でべたべたするなって、話すのは家の用事があるからだし、登下校は出発地も行き先も同じなのに別にする意味もないって理由で一緒なだけなんだから、怒られても困っちゃいます。だいたい、妹の私に嫉妬してどうするんですか。どう転んだってライバルにはなりようがないのに…」

眉間に皺を刻んだ彼女の言葉に、山口は少しだけ口角を引いて目線を落とした。机の天板に肘をつき手に顎を乗せると、加わった重みで金属の足がぎいと音を立てる。

「…誰かを大好きになるとさ、ライバルになるわけがないってわかってても、どうしても周りに焼き餅を焼いちゃうんだよ、きっと」
「…それが妹相手でもですか?」
「妹でも兄でも、羨ましいとか妬ましいとか感じちゃうんだと思うよ。独占欲みたいなのが、どこかにあるんじゃないかな…って、俺も言うほどわかってないけど、さ」

ふうんと頷いた彼女は、まだ何か考えている風である。山口が「納得いかない?」と声をかけると、は困ったように微笑んだ。

「やっぱり私には、まだ恋とか難しいです。一生懸命なのはすごいなと思うけど、蛍くんの周りの女の子見てると、ちょっと…怖い、って言うか」

子供っぽくて恥ずかしいけど、と顔を伏せる彼女の耳が少し赤くなっていた。
山口は、その染まる肌色を眺めて、一人目を細める。

女子から人気のある兄を持った彼女は、これまでも恋愛絡みのいざこざに巻き込まれた経験があるのだろう。自分が誰かを好きになる前に、その副作用を被ってしまったからか、同年代の女子に比べてもは圧倒的に男女の付き合いのようなものに対して淡泊だ。
それでいい、と山口は思った。

(…ちゃんはまだ知らなくていいよ)

口には出さず目の前の少女に呼びかける。
こんな、痺れるように甘くて、それでいて暴力的で、制御できない気持ちは。
が言う、その『怖い』感情を、彼が自身に向けていると知ったら、どんな反応が返ってくるのだろう。
知りたい、けれど知るのも怖い。
そんな気持ちに板挟みになって、彼は一歩も進めずにいる。
と近しい間柄という自信はある。だが、互いに向けている感情は全くの別物で。
まるで、真夏の氷菓を、ずっと握りしめているみたいだった。
すっかり溶けてどろどろになったそれが、掌にべたついて拭えない。
気づかれないように後ろ手に隠して、屈託なく笑う彼女のそばに立つ。
いつか彼女が恋に目覚める様をそこから眺める日が来るのかもしれない。
その相手が自分ではないかもしれないと考えるのはとても怖かった。
それでも隣にいる心地よさは手放せなくて。
狡くてごめん、と心の中で謝った。その言葉も意味も、届くはずがないけれど。

「ただいま…って、、来てたの」
「あ、蛍くんお帰り!アイス!」

引き戸が開く音とともに、月島の長身が覗く。の姿をとらえた彼は、開口一番放課後の寄り道をねだる妹に眉根を寄せた。
不機嫌な顔をしているくせに、月島が内心彼女が甘えてくれることを嬉しいと思っていることはわかっている。彼がこの後、文句を言いながらも坂ノ下商店に寄るだろうことも。
山口が思わず小さく吹き出すと、耳聡い友人は高い位置からじろりとこちらに視線を向けた。彼は反射的にいつものように謝り、へにゃりと相好を崩す。

「お疲れ、ツッキー。今日、俺も一緒に帰っていい?」
「…別に、好きにすれば」
「山口さんもアイス食べませんか?この間坂ノ下覗いたら、新しいのいっぱいあったんです!」

待ち人が現れた彼女の頭には、好物の買い食いしかないらしい。先ほどまで恋愛は怖い、などと小難しい表情でこぼしていたことなどすっかり忘れているようだ。
子供のように無邪気な表情に、山口も笑みを見せた。



夕日に染めあげられた帰り道は、きっと冷たくて甘くて、少しだけほろ苦い。
澄んだ日差しのようにきらめく彼女を見られることが、今一番の幸せだ。
べたついた両手はポケットに入れたまま、想いは胸に閉じこめて。
高校2年の夏の一日が、終わろうとしていた。



好きの気持ちがよくわからない月島の妹と、大好きだけど踏み出せない臆病な山口。
腹を括りきれない弱気な片想いのお話です。少しだけ続きます。
image song:スキマスイッチ『アイスクリームシンドローム』