傷のない黒のダイニングテーブル。家主の性格を思わせるそれに、彼女は盛大に上体を投げ出していた。
脇に避けられたペットボトルには、半分くらい残ったままの麦茶。取り込んだ分と失った分と、果たしてどちらの水分量が多いだろう。

「……いつまでそうしてるつもりなんだよ、

ことん、と音を立てて、ペットボトルが一本増えた。それを合図に、ずっと無言だった彼女がのろのろと顔を上げる。目元は真っ赤に腫れ上がって、いつもの笑顔は見る影もない。袖口で乱暴に拭おうとするのを、溜め息と共に月島が止める。ぼろり、大粒の涙がまた赤い頬に筋を残して落ちた。

「また泣く…人の家にいきなり押し掛けて、何してるの」
「け、蛍くん、うるさい……」
「ああ、そ。……いい加減、明日が思いやられる顔だけど」

ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜて、月島の長身は扉の向こうに消えて行った。寝室のパソコンで仕事の続きをするらしい。乱れた髪の毛を手櫛で撫でつけながら、が唇を噛み締める。

「……ごめんなさい山口さん、明日もお仕事なのに巻き込んで」
「え、いや、大丈夫だよ。元々ツッキーにDVD借りたら、そのまま宅飲みでもしようかって言ってたし」

それに、と続けかけた本音は笑顔と一緒に飲み込んだ。
―――こんな辛そうにしてるちゃんのこと、知らないままでいる方が嫌だから、なんて。
恋人との決裂に酷く傷ついている今の彼女を目の前にして、とてもそんな言葉はかけられない。

「この際だから、全部言っちゃいなよ。吐き出したらスッキリすると思う。俺で良ければ聞くからさ」

言いながら笑いそうになる―――我ながら見事なピエロぶりだ。
山口の情けない顔には気付いていないらしく、はゆっくりと麦茶を飲み込む。喉がからからだ、と呟いて、今日初めての笑みを見せた。あれだけ泣けば脱水になるのも当然だろう。もう一口という促しに首肯して再びボトルに口をつける。
彼女がぽつりぽつりと話し始めたときには、一本目の容器は空になっていた。

「……喧嘩別れ、になるのかなあ。もう何がきっかけだったのかも分からなくて」

些細なことで言い合いになった。口喧嘩自体は別段珍しいことだったわけでもないけれど、今日は何故かどちらも意固地になって譲らなかったらしい。そうして、相手がぽつりと溢した「もういい」という言葉。それが、終わりの合図だった。
お前のことは嫌いじゃないよ、でももう付き合っては行けないんだ。
一番大事だった筈の相手からそんな風に突き放されて、彼女は頷くことしかできなかったという。

「何処で間違ったのかな…何処から駄目だったのかなあ。……分かってたんです、最近上手くいかないなって。次会った時何をしたら打開策になるかなとか考えたりもして…でもそんなことも伝えられないままに終わっちゃった」

自嘲の笑みを溢した口許が歪む。瞬きと同時にまた一筋、光る跡が頬に刻まれた。

「……私、ちゃんとあの人のこと好きだったのかな。お互い好きだって思ってた筈だったのに…自信、なくなっちゃいました」

―――例えば、ここで彼女の望む慰めの言葉をかけられたのなら。
その勇気があれば、そんな男止めて俺にしなよ、などと本音を打ち明けることが出来るのだろうか。
結局口を開くことはできないまま、山口は祈るように固く握りしめられたの拳に手を添える。
その指先は、絶え間なく流れる涙に濡れてすっかり冷たくなっていた。

「……ちゃんは、ちゃんと相手を大事にしてたよ。その人の話をしてる君は、とてもきらきらしてて、素敵だった」

初めてのデートに着ていく服を買ったとき。手料理を振る舞うために、練習を繰り返していたとき。
多分、彼女の兄と彼氏の次くらいの近さで見ていたから、よく知っている。
恋をしているは、誰よりも可愛かった。
その笑顔を自分だけのものに出来たらと、何度も渇望したほどに。

「……ありがとうございます。山口さん、優しいね」

赤くなった目元を細めて、鼻声混じりで笑って見せる。
そんな彼女に、山口も不器用な笑顔を返した。

「……昔、山口さんに恋愛ってよくわからないって話をしたの、覚えてますか?」
「ああ…うん、ちゃんが1年の夏だったよね」

夕焼けに染まった教室のことはよく記憶に残っている。
あの頃既に、彼女のことが好きだった。

「あのときのこと、たまに思い出すんです。彼と付き合って、少しは大人になったかなって思ってたけど、こうなってみるとやっぱりまだわからないですね。…本当、好きになるって難しい」
「それはそうだよ、一回の経験で全部わかっちゃうものなら、世の中もっと平和だって」

おどけた調子で言う山口に、は小さく吹き出した。
さっきよりも明るくなった表情にほっとする。
自分の腕に顎を乗せて、彼女は静かに瞼を下ろした。

「……また、出来るといいなあ、好きな人」

独り言のような小さな声に、思わず言葉を失う。
ここでアピール出来ないからずっと片想いなんだよな、と山口が一人反省会をしている間に、向かいからは規則正しい呼吸が聞こえてきた。余程疲労を溜めていたのか、あっという間に寝入ってしまったの姿に、知らず笑みが浮かぶ。

「……、寝たの」

内開きのドアの向こうから、マグを片手に部屋に戻ってきたのは彼女の兄だった。静かに上下するの肩に、呆れたように顔をしかめる。それが半分照れ隠しで、ほっとしている内心を誤魔化したいだけだと知っている山口は、その表情には敢えて触れずにお疲れさまと声をかけた。

「仕事、終わった?」
「どっちかっていうと終わらせた…には寝室使わせるから。……その、遅くまで悪かったな、山口」
「ううん、俺なら大丈夫。……ちゃんが、少しでも元気になれてたらいいんだけど」

柔らかく笑みを浮かべる友人を横目に、妹の体を起こす。その表情が、ただ一人にだけ向けられるものであると知る月島は、言葉なくわずかに頷いた。
肩を引かれ、横抱きにされても起きる気配がない。熟睡している妹に呆れの目線を走らせて、彼は山口に水を向けた。

「…山口、泊まる?僕と一緒にリビングに雑魚寝になるけど」
「ありがと、ツッキー。でも平気、俺は帰るよ。ちゃんのことよろしくね」

遠慮したわけではない。だが、今の彼女のそばに「兄の友人」でしかない自分がいるのはおかしいと思った。

(踏み出す勇気を持てない俺に、その資格はない、よね)

兄の腕の中にいるをちらりと見やり、上着を手に立ち上がる。彼女を抱えて動き回れない月島の視線に見送られて、就寝の挨拶とともに山口はマンションの部屋を出た。

見上げた先は、薄く雲のかかった夜空。
まるで、自分の心を映しているようだ、と彼は苦笑した。


*****


人のいないリビングは、先程の喧騒が嘘のように夜中の静けさに沈みきっていた。
騒ぎの元凶であった妹は、今は寝室のベッドに潜って夢の中である。
まるで嵐のような数時間だった。
飲み干した紅茶はすっかり温くなっていて、ため息が零れた。
まったくもって、僕の周囲は手のかかる人間ばかりだ。
妹と友人になつかれるのに悪い気はしないが、実を言えば二人とももっと自立して欲しいと言うのが本音である。
ついでに二人がくっついて幸せになるなら別にそれでも構わないとも思っているけれど、何だか癪なのでこれは言ってやらないつもりだ。



「……アイスでも食べるか」

独り言が空に溶ける。空のマグを片手にキッチンへ向かった。
冷気に肌を刺されながら、先日が押しかけてきたときに置いて行ったアイスを一つとる。揃いで買い置かれたキャラメル味は、甘味好きの彼女の好物だ。
カップに詰まった氷菓子を口にすると、少し粘着質な甘みが広がった。
明日起きたら、にも一つ渡そう。
彼女の好きなこの味なら、今日見ることがなかった笑顔を引き出せる、そんな予感が僕にはあった。



初めて失恋した月島の妹と、初恋をこじらせた山口。
本文には書いていませんが、妹ちゃんは大学院生、月島山口は社会人の設定で書いています。
もう1話だけ続きます。