時計の短針は9と10の数字の間をゆっくりと進んでいた。
ブルーライトにさらされ続けた眼球が悲鳴を上げている。眼鏡を押し上げて、眉間をぐりぐりと揉んでみるも、視界に目立った変化はなさそうだった。
再びレンズで矯正された視界が、タイムラグを経て網膜に結像する。先ほどよりも焦点を合わせるのに時間がかかっているように感じるのは水晶体調節を担う筋肉を酷使し続けているせいだろう。
月島は深いため息をついて、凝り固まった肩を回した。
明日の会議では、彼がメインで企画のプレゼンをすることになっている。社会人としてまだ経験の浅い身にとっては、めったにない大きなチャンスだ。土曜日出勤の憂鬱をも払拭できそうな勢いである。
万全の態勢でと気合十分に臨んだはいいものの、あいにくと彼にとって今日は厄日であった。日頃抱える業務に加え、上司に押し付けられた仕事も重なって、なかなか思うようにプレゼン準備に取り掛かれなかったのだ。
おそらく退社後飲みに行ったであろう上司の浮かれた顔を思い出すと舌打ちをしたくなるが、おいそれと逆らえないのが社会人の悲しい上下関係である。もともと遅くなる覚悟はあったため、念のために着替えなどは準備してあったが、まさか本当に使うことになるとは思いもしなかった。シャワー室と仮眠室が完備されたオフィスだったことがせめてもの慰めだ。さすがにプレゼンを前日からの延長線上で迎えるのは避けたい。
冷めてしまったコーヒーを口にしながら残りの作業を計算していたところで、デスクの上に投げ出された携帯電話が不意に着信のランプをともした。短く震えたそれは、メールの受信を知らせる合図である。
こんな時間に、一体だれが。
慣れた手つきでメール画面を開くと、差出人は月島の妹であった。
今日彼女と連絡を取る予定はなかった。どうしたのかと首をかしげつつ文面をスクロールする。
そして、月島は眉根を寄せて大きく溜息をついた。
妹からのメッセージは、今夜彼の家に泊めてほしいという内容であった。今までも、彼女がマンションに突然遊びに来たことはあったが、このように唐突な申し出は例がない。ひらがなばかりで打ち損じも見られる文面から察するに、酔いが回っているようだ。
そういえば、先週彼女と電話で話した際、飲み会に誘われた日があると聞いたような気がする。それがおそらく今夜だったのだろう。
とはいえ、勤め先に缶詰め状態の彼の現状では、マンションで妹を迎えることはできない。
合鍵は渡してある。勝手に入って構わないから、と伝えるために、月島はメールに電話を返した。

『……もしもし、蛍君?』
「ああ、。メール読んだよ、今日は僕職場に泊まり込みなんだけど、合鍵使っていいから……」
『え……蛍君仕事なの……?』

電話越しに聞こえる妹の声が、狼狽したように小さくなる。月島は引っ掻かるその態度に、知らず眉根を寄せていた。
機械越しの会話の背景から、妹は屋外にいるらしいことがわかる。アナウンスの声が雑音に交じることからして、どうやら駅にいるらしい。夜も更けて帰宅ラッシュの波は去ったらしいが、人の声はざわざわ混ざってBGMになっていた。
そんな中に、比較的はっきりと聞こえる声がある。男のものと思しきそれが、比較的近くから発せられていることはすぐに分かった。
一体、彼女はなぜ泊まりたいと言ってきたのだろうか。

「……、どこにいるんだ。今日何してた?」
『……ごめん、ちょっと移動するね』

言葉のとおり、は場所を変えたらしい。移動する旨を断ったらしい彼女に応じたのは、やはり男の声である。

『……お待たせ、蛍君。本当にごめんね、いきなり』
「別に、初めてのことじゃないでしょ。それより言いなよ、今どこにいるの、駅?」
『うん……さっき飲み会が終わったところで』

彼女が告げた駅名は、多くの人が乗り換えに使用するターミナル駅だった。それは同時に月島のマンションの最寄駅でもある。彼女の大学近くの下宿へはそこで地下鉄に乗り換えるため、どこで夜を過ごすかの選択はここで結論をつけるべきであった。
では、なぜ月島のマンションの鍵を持った彼女がすぐにでもそこへ向かわないのか。そもそも、この時間なら自宅へ続く地下鉄も運行しているはずだ。
その理由は、尋ねる前から月島にも予想できた。

『友達に強く誘われて、その子のサークルの飲み会に行ったんだけど……それが、その、合コン、で』
「……それで、普段あんまり飲まない酒を断りきれずに飲まされて、送っていくからって男についてこられてる、ってわけ」
『……おっしゃる通りです……』
「はぁ……どうせ別れたばかりで落ち込んでたのを励ましたくて、とか虫のいいこと言われたんだろ。まったく、隙が多いからこうなるんだよ」
『面目次第もございません……』

スピーカーから聞こえる気まずそうな声に、ため息を禁じ得ない。
とはいえ、彼女を責めて解決する話ではないし、本人の酩酊具合や状況を考えるとこのままでは男のいいようにされてしまうことが目に見えている。
何とか打開策を練らねば、と思考を巡らせた月島の脳裏に、長い付き合いになる友人の顔が浮かんだ。
突然の頼みごとをするには、夜が深まりすぎている。逡巡はあったものの、彼の選択は早かった。
頼んで駄目だったら、自分が何とか都合をつけて向かえばいい。
月島は、電話越しに妹の名を呼んだ。

「とりあえず、今夜はうちに来なよ。迎えは何とかするから、駅で待ってろ」
『わかった。改札近くのベンチにいるね』
「ああ。……気をつけて」

くぎを刺す兄に、礼を述べるの声は先ほどよりも柔らかくなっている。
ついてきているという男をどう躱すかは、彼女に託すしかない。間違ってもどこかに連れて行かれるようなことがなければいいが、と悪い方にばかり想像を巡らせてしまう自分に、月島は頭を掻いた。
通話を切った指で、アドレス帳を開く。いくつかのファイルを開いて、やがて目当てのデータにたどり着いた彼は、再び携帯電話を耳に当てたのだった。


*****


山口忠は、明かりの落ちたビルの合間を縫って駆けていた。
時刻はすでに10時を回っている。15分前に学生時代からの友人から電話を受けるまで、こんな状況を予想していなかった。
冬の夜、人気の少ないオフィス街は街頭表示の気温よりも寒く感じる。白い息を背後にたなびかせて、彼は道を急ぐ。飲み会明けらしいサラリーマンを乗せたタクシーが横を通り過ぎて行った。

が合コンで会った男にまとわりつかれているらしい。だが今日は仕事で暫く帰れないから、彼女を自分のマンションに連れて行ってくれないか。

そんな依頼が友人から来たとき、一瞬山口は返答を躊躇った。
信用されている、ということなのだろうが、あくまで友人でしかない自分が彼の大事な妹を預かってしまっていいものか。
増して、山口は10年近い片思いを彼女に向けているのである。聡い月島が、それに気づいていないとは思えない。
そんな考えから二の足を踏んだ山口だったが、続く友人の言葉に、引き受けることを決意したのだった。

“お前に、を頼みたいんだ――”

そして、彼はジャケットを片手に自分の家を飛び出した。



駅前になると人通りもかなり多くなってくる。
構内に飛び込んで、改札付近できょろきょろとあたりを見回す。
ベンチにいると聞いたが、どこだろう。この駅には、ターミナルらしく小休憩をとれる椅子が複数個所に設置されていた。
脳裏に浮かぶ女性の姿を求めて視線を巡らす山口の耳に、澄んだ声が飛び込んでくる。

「――山口さん!」

声の方を振り返れば、売店近くのベンチから立ち上がってがこちらに手を振っている。
彼女のほっとしたような笑顔とは対照的に、傍らのベンチに明るい髪色の男が少し憮然とした表情で座っていた。
山口が駆け寄ると、はふわりと破顔する。顔が赤いのは寒さに加えてほのかに香るアルコールのせいでもあるらしい。
男の不機嫌そうな視線を感じながら、山口はに笑み返した。

「びっくりしました、蛍君が来るのかと思ってたから」
「ツッキーはお仕事で手が離せなくて、俺が代役なんだ。……迎えに来たよ、ちゃん」
「わざわざすいません、ありがとうございます」
「……あの、月島さん」
「あ、ごめんなさい。兄のお友達が迎えに来てくれたので、今日は兄のところに帰りますね。一緒に待ってくれてありがとうございました」

ベンチの男に呼びかけられて、はにこやかに礼を述べた。
言外にここまでで結構と線引きをするにひそかに舌を巻きながら、山口は恨めしそうにこちらを見てくる男を眼で牽制する。自分が番犬だというアピールは今後のためにも欠かせない。
一度背を向けたら振り返らない。ブーツのかかとを石畳の床で鳴らしながら、彼女は山口に先んじて歩き出す。
その足が止まったのは、駅の明かりが届かなくなったロータリーの端だった。

「……ちゃん、大丈夫?気持ち悪いの?」
「すいません、山口さん……ちょっと、急ぎすぎちゃいました」
「ゆっくりでいいよ。タクシー拾う?」

山口の申し出に、はわずかに青い顔で首を振る。この様子では車の振動は苦しいだろう。
月島のマンションまでは何もなければ徒歩10分程で着く距離だ。彼はに合わせてゆっくりとしたペースで歩いた。
合間に聞いた話から、今日のあらましが明らかになっていく。
友人にぜひにと誘われて行った飲み会が、いわゆる合同コンパだったこと。先ほどの男に気に入られたらしく、お酒をしつこく勧められたり、帰る段になっても送ると言ってついてこられたこと。待っている間、兄の迎えが来るという彼女の言い分を疑う発言を繰り返していたこと。
そうまでに執着するなら、具合の悪そうな顔色に気づけばいいものを、と悪態をつきたくなる。彼女の眉間には深い皺が刻まれたままだった。
ふと視界にまぶしい人口の明かりを放つ店舗が飛び込んでくる。山口は、彼の腕に掴まって歩く女性に声をかけた。

ちゃん、ちょっとコンビニ寄って行こうか。ツッキーの家に何があるか確認してないし、お水買って行こう」
「はい……あの、ついでにお手洗いに寄っても、いいですか」
「うん、無理しないでね」

コンビニに入って、はまっすぐ手洗いに向かった。その間に山口は店内を回り、いくつかの品物を買う。
店の奥から出てきたは、先ほどよりもすっきりした顔色をしていた。戻すようなことはなかったらしいが、少しの時間でも休めたことが功を奏したようだ。
その証拠に、店を出てからマンション迄の道のりはこれまでよりも速いペースで進むことができたのだった。


*****



家主不在の家は、相変わらず整っている。兄の潔癖に近い几帳面な性格が表れているなとぼんやりとした頭で考えた。
ソファになだれ込むように腰を下ろして、気合で伸ばしていた背中を思い切り丸める。山口さんの苦笑とともに、手に冷たいペットボトルが乗せられた。

「とりあえず一本、飲んだら楽になると思うよ。気持ち悪い?」
「いえ……どちらかというと頭痛の方がつらいです……」
「ああ……じゃあ頑張って飲んでアルコール薄めちゃわないとね。暖房つけて暖かくしよう」

そういって、山口さんは私の横にヒーターを移動させ電源を入れた。
じりじりと熱波が空気を侵食していくような錯覚。私は受け取ったペットボトルの蓋を開け、音を立てて水を喉に流し込んだ。
アルコールで焼けたままのべたついた咽喉の粘膜を洗い流すようだ。
山口さんはキッチンにいるらしい。途切れ途切れ聞こえる相槌は電話の会話だろう。『ツッキー』と呼びかけていることからして、相手はきっと兄だ。
本来なら私が連絡するべきところを山口さんに丸投げしてしまった形になる。申し訳なさで口の中の苦みが増した気がした。
暫く続いていた声が途切れて少しのち、私の携帯電話が着信を知らせて震えた。
それは兄からのメールで、『山口に礼だけは言うように』というなんとも彼らしいシンプルな文面だった。
本文対する返事に兄への謝辞を添えてメールを送信する。
送信完了の文字がディスプレイの真ん中に浮かんだと同時、山口さんがキッチンから帰ってきた。
隣に腰かけて、ローテーブルにことりと音を立ててプラスチックカップを置く。
それは、私の一番の好物――少しだけ値段の張る有名レーベルのカップアイスだった。
驚いて山口さんを見上げれば、その手の中にもお揃いのカップが一つ。彼は右手の人差し指を唇に押し当て、ひそやかに笑った。

「――ツッキーには、内緒だよ」

二人分しかないからね、という楽しげな声が鼓膜を擽る。
なぜか肌が熱を持つのを感じながら、私は机の上のカップアイスに手を伸ばした。
すぐ隣にあるヒーターにじりじりと焼かれながら、二人並んで氷菓子を食す。早くも液化し始めたそれを口にすると、バニラの甘みが鼻腔の奥にまで広がった。
――早く、早く冷めろ、私の頬。氷の冷たさでこの熱を溶かして。
顔が火照って感じるのはヒーターのせいだと思いたい。
一口スプーンを口にするごとに、今日の山口さんの優しい声が思い出される。迎えに来たと手を取ってくれた、倒れそうな体を支えてくれた、元バレー選手らしい大きな手の暖かさがよみがえる。

(何、私、どうしたの)

10年も、兄を含めて3人で一緒にいた、いわば友人のような人。私が少しずつ大人になろうともがくのを、ずっと見守ってくれていた人。
そんな人の隣にいることに、どうしてこんなに緊張しているんだろう。
お酒のせいかな、それともしつこくされて嫌な思いをしたあとだからかな。
男の人だなんて、意識したこと、なかったのに。
内緒だよ、と少しだけおどけて言った、妖艶な笑顔が瞼の裏から離れない。あの人差し指に絡め取られてしまったみたいだ。

「……ちゃん?どうかした?」

山口さんが私を覗き込んでくる気配がする。
見ないで。今、きっととても恥ずかしい顔をしている。
そんな思いを言葉にすることもできず、私はおずおずと彼を見上げた。
山口さんは、普段から丸い目をさらに見開いて、一拍置いてから破顔した。
ああ、山口さんだ、と思うような柔らかな笑顔。
さっきまで背中を支えてくれていた手が、私の頭を繰り返し撫ぜていく。
何の魔法だろう――彼の指が髪を梳くたびに、瞼が抗いがたく降りてきた。

「お疲れ様。今日は、もう休んでいいよ」
「山口、さん……ありがとう、ござい、ました」
「うん。俺はここにいるから……お休み、ちゃん」

待って、まだ足りない。ありがとうじゃ今日のお礼は言い切れないのに。
焦る気持ちと裏腹に、瞼は重くなるばかり。
山口さん、と彼の名を呼びながら、私の意識は暗闇に沈んでいった。


*****


終電前に仕事が片付いた。
泊まり込みも覚悟した数時間前が嘘のような勢いだ。帰宅が間に合うと見るや否や、彼は長いストライドを存分に生かして電車に駆け込んだ。
我ながら、妹に甘いと思う。だが何だかんだでここまで守ってきた、たった一人の兄妹だ。それをからかいの種にする者――かつてのチームメイトである天才セッターのような人物に知られなければ、多少彼女に目をかけても恥ずかしいことはないと、月島は開き直っていた。
ちょうど止まっていたエレベーターで自宅の階まで上がり、慣れた手つきでドアの鍵を回す。
主を迎え入れた部屋は、外よりも5度以上は暖かくなっていた。

「……あ、ツッキー!おかえり、仕事終わったんだ」
「……ああ。悪かったな、山口……さっきも、今も」

リビングに足を踏み入れた月島の目に飛び込んできたのは、ソファに並んで座る友人と妹の姿。こちらを振り返って笑顔を見せる彼の肩に頭を預けて、彼女は深い寝息を立てていた。
こっちの気も知らずに呑気なものだ、と思わずため息が口をついて出る。
山口は苦笑いで、自分の袖を指差した。そちらに目を向ければ、の小さな両手が彼のシャツの布地を握りしめている。

「一回席を立ったんだけど、戻ってきたらどうやら寒かったみたいで。この通り、カイロ代わり中。あ、別に迷惑ってわけじゃないんだけど、さすがにここで寝かし続けるわけにもいかないし、どういたらいいかなって思って」
「……本当、悪い……は僕が寝室に運ぶから」
「うん、お願いします、ツッキー」

熟睡中の妹の体を抱え上げると、山口の袖を握っていた指は静かに離れた。友人はだらりと下がった腕をいたわるように掬い上げ、兄に横抱きにされたの腹部に乗せる。細められたその眼に、ありったけの慈しみが光をともしていた。
腕の中の妹は深い深い夢の中。アルコールの匂いに混じって、バニラの甘みがほのかに鼻腔を掠める。

――まったく、幸せそうな顔をして。

今日何度目ともしれないため息を吐きながら、月島の口元は小さく弧を描いていた。



時系列的にはキャラメルリボンの少しあと。
山口君と二人だけの秘密を作りたかった。
山口君の長い片思いもそろそろ実を結びそうです。彼が立ち止ったときには、また月島君が素直じゃない態度で背中を押してくれることでしょう。
テーマソングにしていた曲からは大分ずれてしまった感じもありますが、やりたかったネタをいくつか詰め込んで書くことができたので満足しています。
アイスクリームシリーズはこれにておしまいです。ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。